歴史あれこれQ&A

Q:佛立寺の御宝前さまの御本尊はどうなっているのですか?

:佛立寺の御宝前さまを拝ませて頂いても御本尊さまが拝めません。佛立寺の御本尊さまは、開導聖人がご自分でお給仕され、お仕えされた御宝前さまで、開導聖人は、「御本尊並高祖の尊像等は、都て長松堂の持佛堂をうつす」と、仰せられてあります。
  我々が「妙講一座」でお唱えさせて頂く御文、「其本尊の体たらく、本地の娑婆の上に宝塔空に居し、塔中の妙法蓮華経の左右には釈迦牟尼佛、多宝佛、釈尊の 脇侍は上行等の四菩薩」の御文そのままに、正面の金色のお雲の上には、一塔両尊四師(いっとうりょうそんしし)のご木造の御本尊さまがご安置されていま す。

 佛立宗の御本尊さまは、要式の御本尊さまで一遍主題、御題目さまに目を付けて、御題目さまと一つになって、御宝前様の中に飛び込ませて頂く のが本義です。しかし、佛立寺の御本尊さまを開導聖人が手ずからお祀りくださったのも動かせない事実で、二十一世ご講有御牧日勤上人は、「佛立宗の『歴 史』をお祀りさせて頂いているのだ」と仰せられました。
 また、開導聖人は、ご晩年になればなるほどお祖師様へのご信仰を深められ、ご利益はお祖師様から頂くのだというご信心であられたと教えて頂いています。 佛立寺の御宝前さまも、御本尊さまは直接拝めませんが、御本尊さまと一体のお祖師様からご 利益を頂くのだとの思いで、御宝前さまに飛び込む思いで御題目口唱に励ませて頂いています。

 また、佛立寺のお祖師様は、開導聖人が「大仏師一刀一首題の尊像也」と仰せられているように、名工が一ノミに一遍御題目を唱えつつ彫り上げられたお祖師様で、御題目を唱えどおしにお唱えしながら謹刻されたお祖師様であるということです。
 また、大津のお祖師様には、お背中の御題目のご開眼はなく、「ご内証のご開眼」のお祖師様と呼ばれており、開導聖人が「南無妙法蓮華経」と御題目をお唱えになってお魂を吹き込まれたお祖師様で、これまた「歴史」を映すお姿であると申せると存じます。
 このお祖師様は、また、「杓振りのお祖師様」と呼ばれるお祖師様で、日勤上人から伺ったお話しによると、佛立寺に泥棒が入った時、杓を振ってお知らせになり、後ろを振り返ると泥棒が腰を抜かして動けなくなっていたというお祖師様です。
 また、佛立寺にはご両祖さまもお祀りされており、門祖様のご尊躰は、本門法華宗で百躰造られた中の一躰で、二世日聞上人が背中に御題目を認めご開眼されています。
 なお、大尊師様のご尊躰は、開導聖人の十三回御諱に謹刻されたご尊躰で、こちらには御題目のご開眼はされていません。


Q:佛立寺の開導聖人のご銅像はなぜ刀をさしておられるの?

:開導聖人が法橋の身分をご弘通の後ろ盾にされたことは、諸所に書かせて頂きました。
 法橋は苗字帯刀、菊花金紋の使用を許された身分で、開導聖人は、「今大路法橋清風延貞(のぶさだ)と名のられました。
 佛立寺のご銅像のモチーフは、現在の佛立寺の本堂が建って開筵式をされた昭和三年の開筵式記念帳の中にあるご銅像のミニチュアの写真にあります。そこに は「近く当山に建立さるべき大津今大路清風御時代を偲ぶ日扇聖人御銅像」とありますが、その「近く」が、平成三年にまで延びたわけで、六十五年ぶりにその モチーフが陽の目を見たことになります。

 その理由は、昭和のはじめの金融恐慌が大きな理由であったと考えられますが、時を経て、その流れに忘れ去られてしまっていたのでしょうか?
 写真を見て、とにかく佛立寺にしか似合わない、佛立寺であればこそ可能なお姿のご銅像だということで、謹製させて頂いたのが佛立寺の開導聖人像です。
 そこには、怨嫉に負けない、快刀乱麻の折伏の精神、たくましい開導聖人のご弘通意欲が映し込まれており、また、僧侶でありながら刀を帯たお姿に、何とし てもこの佛立講を民衆の中に根付かせたいというご弘通にかける柔軟な姿勢も映されているのではないかと拝見するのです。


Q:大津の大灯篭は誰のデザイン?

:大津佛立寺の大灯篭は高さ一丈五尺、約5メートル。笠、火袋が大きく、腰の辺りが大きくくびれて、そこにまだ深い太い字で「常夜灯」と彫られています。
 これは開導聖人ご自身の意匠、デザインによるもので、実に優美で堂々とした石の灯篭です。開導聖人は、こうした方面でも長けておられたわけで、慶応二年、この灯篭が立つや、すぐさま東海道の名物灯篭となったといいます。
 何でも石虎という、当時石匠第一といわれた京都大仏前の石屋であったということですが、その石屋が「先生、これはだめです。こんなに笠と火袋が大きく て、足元が細くて、おまけにこんなに深い字を彫ったのでは、とてももちませんぜ」と言ったところ、開導聖人が「いいから作りなさい。同じ一本の石から採っ たものなら折れることはないから、図面の通り作ってもらいたい」と、注文して造らせられたのが、この灯篭であるということです。当時、開導聖人は五十歳で あられましたが、開導聖人の博学多識、ご造詣の深さの偲ばれるお話しでもあります。

 石屋も半信半疑、刻みあげた灯篭は、今なおその荘厳な姿で道行く人の安全を願い、目印となり、夜道のともし火、たよりとなり、信者の信心を見守り続けてくださってあるのです。
 開導聖人がこの大灯篭を建立されたのは、一つには道行く人へのお供養であり、また、「法華堂ここにあり」との心意気を示すPRでもあったと拝されます。
 林甚太郎さんがこのお灯篭に火をともしてご利益を頂かれたお話しも有名なところですが、今建っている佛立寺の本堂は、この大灯篭に負けないような本堂を建立したいということで建てられた本堂で、信心の中身も甚太郎さんに負けない信心前を願わずにはおれません。