日風上人のことども⑧

             住職 小野山  淳堂

 

日聞上人御詠句
怨嫉の 風におこりし たどんかな

 待ちかねていた門祖会も駆け足で過ぎてゆき、お天気のお計らいが頂けずにお懺悔させて頂きました。
 夏の開導会に向けお教化・参詣将引に気張らせて頂きましょう。
 五日の子供の日は「子供フェス」で「グリム冒険の森」です。楽しい一日になりますよう。母の日・父の日が法灯相続に繋がりますように。

 

 さて、美濃大地震から八年間、大垣方面でご奉公された日風上人は、「福井座事件」に遭遇されましたが、「御自伝」には次のようにあります。
 「明治三十年八月、大本山妙蓮寺塔中の僧等、守灯燈徳と通名せし日喜を始めとして当佛立講宥清寺住職二世講有御牧現喜日聞御師に怨嫉、無言の悪口をなし、佛立講を消滅せしめ、住職を剥奪せん事を巧み、本山の檀家中『江良春隆』という代理委任となして、京都新京極六角下る東側、興行席の福井座に於て大演説会を開かしめ、既に京都本門佛立講重役の面々の町々、家々毎に『とうざいや』にいい振らし、午後六時の刻を待ちて福井座に開演せり。

 

 この時、即ち日風と兄新平、共々申し合せ両人演説の最中に乱入、直ちに江良春隆に向い応問をなすに傍聴人は数千人を超過せり。言語に尽すに非ざる雑闘極り、乱場、戦争というべき歟。
 兄新平は数ケ所の傷を受けつつ戦いの中に警察官吏五十有余名、此場に来り、江良春隆始め十有余名悉く逃げ去り、新平は警察署に引渡され、取しらべの上、速に証言せられ、悪意を以てなせし行為に非ず、速に明了、御免となり」と、少々興奮を交えて事情を述べられてあります。
 小野山新平氏の子息で当山九世日衛上人が日風上人第五十回御諱の記念誌『日風上人』に書かれてある記事に泉日恒上人が大放光に当稿された記述を交えて、この事件の前後を紹介すると次のようでありました。

 

 演説会の中心人物・江羅直三郎氏は春隆と号し、かつて妙蓮寺檀徒総代で、東京へ出て何回も国会議員に当選した人であり、この人が佛立講に不満を持ち、佛立講撲滅のために明治二十九年冬、大阪に下ったのが始まりでした。最初は春隆を知る人はなく、明治三十年五月、ようやく大阪の信徒の賛同を得て、『八品派改革建言書』を携えて京都ヘ登り、京阪信徒連合の名前で佛立講は宗義違反・法律違反であるとして佛立講の担任教師を擯責し、日聞上人を宥清寺から追放しようと企てたのでした。

 

 当時の佛立講の親会場は全て本門法華宗の傘下にあり教師は全て宗門僧侶に依存していたので、この請願は事実上佛立講の壊滅、道場の閉鎖、ご弘通の息を止める企てであり、演説会は社会の与論を味方にする佛立講排撃計画であったのでした。
 明治三十年六月二十三日、佛立講の役中信徒の家毎に「チンドン屋」を廻し、いざという時の侠客も揃え、千名を越える聴衆を集めた演説会の話を聞きつけた日風上人は、兄新平氏と相談。演説会に乱入する新平氏を守って日風上人も演説会に入られたのでした。日聞上人は大阪のご奉公でご不在でしたが事件は日聞・日隨上人の能化昇進で結果し、開導聖人亡き後の佛立講を盤石せしめることとなり冒頭の教句を新平氏に贈られました。この事件は無謀な様で、窮鼠猫を噛む抵抗であったのです。
御指南「災も転じて幸となるべしこれ経の御守り也」(扇26・198)