当山は佛立開導日扇聖人のご自建立にして、佛立宗に於ける最初道場であり安政六年(一八五八年)八月、中大谷における大津本門佛立講開講がそのはじまりです。
三年後、今の追分の地を信徒の寄進により法花堂建立を発願し、文久二年(一八六二年)四月には法花堂落成、依て日扇聖人は京都より御持仏の御宝前をご遷座せらる。元治元年(一八六四年)の蛤ご門の変にて京都は大火となり、日扇聖人は、難を逃れ居を大津追分に移され、翌、慶応元年に法花堂の西隣に日扇聖人の住居として今大路屋敷建立されました。
この頃、日扇聖人は御室御所仁和寺宮の御内人にして、今大路法橋清風と名乗られ弘通せられました。
日扇聖人は仁和寺宮の御内辞退後の慶応四年七月二十九日,怨嫉により大津六十四ヶ寺謗法の者共のザン訴によりキリシタンの邪法を行うと不法逮捕され、弟子信徒共に京の牢に入れらる難は、 日扇聖人ご一代における第一のご心苦であり、佛立寺は法難の聖地霊場でもあります。
当山の寺号公称は、明治十二年にして日扇聖人ご撰名により長松山佛立寺となり、今の本堂庫裏等は昭和二年に佛立第五世講有日風上人の代に改築され、境内には今大路屋敷のほか、日扇聖人在住の頃、弘通盛んなる面影として納骨所、常夜灯の大燈籠などその形跡を残しています。
また、佛立寺の歴代には、開基日扇聖人以下、二世講有日聞上人、三世講有日随上人、四世講有日教上人、 五世講有日風上人、十一世講有日颯上人等住職継承せらました。
日扇聖人御墓所並びに納骨所には上記の日扇聖人及び歴代上人のご分骨がなされ、ご信者も同じく納骨なるは、他にあまり類をみないところであります。
その他、佛立寺には日扇聖人ご自作のご木像、今大路法橋として京へお通いにご使用なったお衣お笠等数々のご遺物が保存されています。