日風上人のことども①

             住職 小野山  淳堂

 

日風上人ご遺詠 

我死なばやくなうづむな野にすてよ   

         うえたる犬のはらこやせ

 

  暑い夏もようやく過ぎようとしています。十九日には新講有・木村日覚上人が当山の日風上人のお墓に講有位晋位の奉告言上をされました。

 今月十二日は龍ノ口法難記念日です。首の座に座られたお祖師さまのご苦労を偲び、少しでも報恩の御題目をお供えさせて頂きましょう。

 廿九日は敬老の松寿会に合せて「絆の会」を開催させて頂きます。

昨年も本堂での御礼言上の後、簡単で誰でも楽しめるゲームで、孫さんの英雄になったお爺ちゃんもおられました。あなたもチャレンジを!

 

 さて、佛立第五世講有・当山中興日風上人は昭和四年八月廿日、法寿七十四歳でご遷化、令和十年に百回御忌をお迎えします。

 ご誕生は安政三年(一八五六)一月十八日(一日ともある)、幼名を弥三郎といい、大津佛立講の初代講元・小野山勘兵衛氏の四男に当り、母まんさんは二代目御牧卯兵衛氏の姉で、二世日聞上人、四世日教上人とは御従弟(いとこ)に当られ、妻りゑさんは日聞上人の妹で、いとこ夫婦(みょうと)でした。

 慶応二年(一八六六)、十一歳で開導聖人の門下に入り、今大路要人(かなめ)と改称し、現立の御弟子名も頂かれました。入門から間もない七月廿九日、開導聖人の大津法難によってご弘通のご奉公の厳しさを身をもって体験され、自ら入牢を願われましたが、開導聖人から「お前は法華堂の留守居じゃ。よう留守していよ」とご命を頂かれました。

 

 また、幼少の頃より剣道に打ち込まれていた日風上人は、子供心に仁和寺の御内人として苗字帯刀を許されていた開導聖人に憧れられると共に、入門を果たしてよりは学徒として和漢の学を修め、宗学を研鑽され、学徒名を清衛と頂かれました。開導聖人が慶応四年に認めれられた『追分組佛立講法門合勝負附』という相撲の番付表になぞらえた御法門合せの成績表には、十三歳の上人が大人に混じって西の横綱に番付けされています(扇二・二四九)。

 その後、学徒としてご奉公されていた日風上人は、開導聖人のご遷化を機に明治廿四年四月・三十六歳で第二世日聞上人の御弟子として現立の名で改めて出家得度を果たされました。

 同廿四年十月、岐阜・名古屋地方をおそった猛烈な濃尾地震の被災地に、師命を受けて入られた日風上人は八年にわたるご奉公によって大垣に松寿組を開設し新会場を建設。その間、明治三十年・四十二歳からは、無住のために自然消滅していた大津佛立寺の寺号を再興、大津を中心に滋賀・中京に弘通、そして明治三十一年・四十三歳の時には奈良本妙寺を再興、明治三十三年・四十五歳の時には金沢昌柳寺を再興されました。

 

 明治三十三年には神戸佛立講妙唱組をはじめ諸組をまとめ支部とし、神戸佛立寺の寺号公称の認可を得、大阪助給庵を改称して清風寺とされました。その他、その後のご奉公もここには書き尽せませんが、最後には冒頭のご遺詠を遺されたのです。

 木村ご講有は日風上人の伝記は涙なしでは読めないと仰せられました。お互いも報恩の思いに精一杯のご奉公を誓いたいものです。

 

御指南「大恩を忘却の人は、大恩を捨てたる人也○大恩を片時も忘れざる人は大恩報尽の人也。真実の御弟子也」(扇全14·444)