無能の一筋

        住職 小野山  淳堂

 

御教歌

ちゑはさるおこなひはうししかはあれど 

            みのりのかげでほとけにぞなる

 

 今月九日、草津別院創立三十周年の記念法要を営ませて頂きます。日雲大徳が民家を買収された旧別院から三十年。場所も建物も替わり、人も代わって創設時代にご苦労頂いた方々も既に帰寂されて、その数は数十名に及びます。御宝前の改装や外壁の改修などの諸工事も完了し、新しい畳の香りも心地良く、新たな一歩を踏み出させて頂きます。各組の代表参詣になりますが、先人に感謝しつつ、共に新しい旅立ちの歴史の一ページに立ち会わせて頂きましょう。

 また、七月二十九日は開導会に併せて大津法難一五〇周年の報恩記念法要を営ませて頂き、暑いさなかではありますが、結縁行列を実施させて頂きます。既に無事奉修のご祈願もさせて頂いております。開導聖人のご苦労を偲び、共に報恩感謝の思い出を作らせて頂きましょう。

 

 さて、お祖師さまは、「行者は必ず不実なりとも、智慧は愚かなりとも、身は不浄なりとも、戒徳は備えずとも、南○経と申さば、必ず、守護し給うべし。袋きたなしとて金(こがね)を捨つることなかれ。伊蘭(いらん)をにくまば栴檀(せんだん)あるべからず。谷の池を不浄なりと嫌はば蓮(はちす)を取るべからず。行者を嫌ひ給はば誓を破り給いなん」(祈祷鈔)と仰せられてあります。

 これは、「御題目の信者の中には決して誠実とは言えない者もあるだろう。智慧の足りない者もあるだろう。その身が不浄な者もあるだろう。戒めが守れず徳を身に付ける事のできない者もあるだろう。しかし、南○経と強盛にお唱えする者は、その御題目口唱の功力を頂いて、諸天善神のお護りを頂くことができるのである。たとえば袋が汚いからといって、黄金(こがね)のはいった袋を捨ててしまう者が無いように、伊蘭の樹が悪臭を放つからといってこれを嫌えば、その中に生えた栴檀の香木を採ることができないように、泥の深い谷の池が汚いからといって、泥を嫌えばその中に咲いた蓮の花を手にすることができないように、たとえ欠点があっても諸天善神が御題目の信者を嫌い捨ててしまわれることはない。というのも、諸天善神が信者を捨てれば、仏前で法華経の行者を必ず護ると誓われた誓いを破ることになるからである」と言っておられるのであります。

 

 お互いは拙い凡夫でありながら、御題目のお蔭でお護りを頂き御利益にあずかることができるのでありますが、しかし、凡夫である事を当たり前にして凡夫のままで良いというのではありません。凡夫であることに対する深い罪障観、強い懺悔の思いがあってこそ、そこから生まれる進歩向上に大きな意味が生まれるのであり、慎みの無い御法さまの上に胡坐(あぐら)をかいた、人を見下げた慢心の中からは憎しみの心しか生れて来ません。

 御教歌の「しかはあれど」とは「そうではあっても」ということ。「知恵は猿ヂエ、行いは牛ではあっても、御題目のお蔭で成仏の果報が頂けるとは」と、畜生同様の浅ましい我が身の上に対する深い自省心に裏打ちされた御法さまへの感謝を教えて下さった大尊師さまのご信心をしっかり頂きたいものです。

 

御指南「罪障消滅の懺悔をいたし申さねば、叶ひがたし。われはこれにてよしとおもふこゝろ起らば上慢也」(松風余韻)