開導聖人のご恩を思う

             住職 小野山  淳堂

 

御教歌

 牢に三度び入られ八度処をば

     追出されつゝ立し此講

 

 今月廿一日は開導会。お互い佛立寺信徒にとって大切な月です。

 佛立開導日扇聖人はお互いにとってご信心上の親です。親の命日に知らん顔では子供としてどうでしょうか。親の年回ともなれば、子供がそれぞれ心を込めて孝養を尽すのが親子の情、親への感謝というもの。

 子供が親孝行してくれなくても結構という親もあるでしょうが、親を慕って子供が来てくれれば嬉しいもの。育て甲斐もあるものです。家族そろってのお参詣をお勧めします。

 十五日から夏期参詣、朝参詣はご利益への近道です。子供用の参詣シールも用意しています。

 

 さて、我われ本門佛立宗の開祖は長松清風・日扇聖人(ながまつせいふう・にっせんしょうにん)です。佛立講を開発教導(かいほつきょうどう)されたので開導聖人(かいどうしょうにん)ともお呼びします。

 明治時代になる五十一年前、文化十四(1817)年の四月一日にご誕生になり、明治廿三年七月十七日、大阪堂島の商家・秦新蔵さんというご信者宅の御講を勤めるために、淀川を船でお下りの道中、守口(今の義天寺)の茶店の新しく建ったばかりの離れ座敷でご休憩中に七十四歳でご入滅になられました。

 開導聖人は今の宗教学者や文化人から「幕末維新の仏教改革者」「明治教団の偉人」「革命的宗教家」等と呼ばれています。

 宗外の開導聖人を紹介する書物には、京都にあって貧しい生活にあえぐ民衆に法華経本門の信仰を説き、このため繰り返し迫害をうけつつ布教を成し遂げた人、その一生は時代の進展に合わせた組織と改良に注力されたと記されています。

 

 ご信心の上から言えば、開導聖人ご自身が「釈尊の御使ひ宗祖也、宗祖の御使ひ門祖也、門祖の御使ひ清風也」と仰せられているように、本門佛立宗は、幕末に誕生したようで、その歴史は久遠本仏釈尊に遡り、高祖日蓮大士、門祖日隆聖人と教えの上からは悠久であり、み仏已来、人類を救済するための「お使い」として、迫害を乗り越え、その使命を果たされたお方であると申せます。

 その才能は和漢の書に通じ、書家としては師匠から神妙の域に達せりと賞賛され、三千余首を超える御教歌や御教句で日常信行の道をご教導くださり、格調高い和歌で四季を楽しみ、絵画の腕も京都在住の文化人・知識人を網羅した『平安人物志』という人名録に十四歳で大人に混じって名を連ねられています。

 

 しかし、開導聖人の真の偉大さは「地涌の菩薩」として草の根から立ち上がり、法華経本門の御題目による不思議のご利益で我々をお救いくださったことにあり、大津法難を始め前後三度に渡る入牢の難を忍びつつ、仏祖の「お使い」としてのご自覚のもとご弘通の手を緩めることをなさらなかったことにあります。

 お互いの佛立寺は、その開導聖人を「開基」と頂く宗内最初の寺院であり、大津法難の旧跡でもあります。

 開導聖人の大慈大悲を一層深く頂き報恩の誠を尽くしたいものです。

 

御指南「清風老年、寒中は休むべきかと存ずれども霜露の命故に御奉公大事と存ずること也」(扇5・273)