「日風上人のことども③」
住職 小野山 淳堂
御教歌
をしげなくわがおもはくを打ち捨てて
身を任すをば御弟子とぞいふ
先月末、高祖会を盛大無事奉修することができました。予定数を上回り、寺内四百名近い参詣に加え、夜からの雨にお天気のお計らいを頂いたことに深く随喜させて頂きました。
今月四日は七五三・無事養育成長のお礼参詣です。大切なお子さんやお孫さんの無事成長に感謝し一層のご加護を祈らせて頂きましょう。
なお、今月は令和六年弘通年度の最終月です。お教化は十個が未成就。諦めずに縁を辿り声を掛け誓願成就に努めて有終の美を飾りましょう。
さて、文久二年(一八六二)四月、追分法華堂に開導聖人ご自身が護持されていた御宝前をご遷座くださってから二年後、年号が文久から元治と改元された元治元年の正月。ご信者が次第に増加した大津佛立講は、逢坂山を境に講元小野山勘兵衛の西組と多羅尾新兵衛を講元とする東組に分組し互いにご弘通に励むこととなりました。
また、この年の七月、蛤御門の変によって開導聖人をお迎えすることになった追分の地はさらに活気づき、翌・慶応元年(一八六五)二月には、「法橋」の位を得られた開導聖人のご住居・今大路屋敷が完成。十歳の日風上人も駕籠で京都の御講にお出ましになる行列の先頭に立って、誇らしく御講のお供をされたのでした。
開導聖人が御教歌されて、
〽いぶせしと
かねておもひし
たかむらに
このごろたえず
うぐいすのこゑ
と詠まれたのもこの頃でした。
「いぶせし」とは「むさくるしい」「うっとうしい」。「たかむら」は「竹やぶ」。京都にいる時はむさくるしい田舎と思っていた追分の竹やぶの中、法華堂の地に日々ご信者方が参詣して上行所伝の御題目口唱に励んでいる声は、「ホケキョ」「ホケキョ」とまるで鶯が鳴いているようだよと詠まれたのです。佛立寺の正面、山門側の道路は東海道で当時のメイン道路でしたが、今の国道側は竹やぶでこの竹やぶを「たかむら」と呼ばれたのです。
このように、法華経本門の御題目がお弘まりになると、必ず起こって来るのが怨嫉です。開導聖人が追分の地に移られて四年後、明治元年(慶応四年・一八六八)七月廿九日、佛立講の発展を嫉んだ大津六十四ケ寺は結束して、開導聖人を当時禁制の宗教であったキリシタンであると京都府に讒訴して大津法難が起こり、開導聖人は京都六角本牢に投獄されることになられたのでした。
法華堂の近く、「小山」に御宝前用の野の花を摘みに出かけた現立(日風上人の開導聖人の御弟子としてのお名前)が法華堂に帰り着くと、お寺の下働きをしていた「よね」という女性が泣き崩れていました。
道行く人にお師匠を尋ねて郷士・溝川氏の宅に辿り着いた十三歳の現立・日風上人が、「お師匠さま、私も連れて行っとくれやす」と縋りつくと、開導聖人が「お前は法華堂の留守居じゃ。よう留守居していよ」とご命じになり、日風上人はこの師命を一生守り抜かれたのでした。
御指南「今大路要人のいはく、月毎の京の御供もうれしけれと牢の御供の叶はぬは口惜とて大になげきたりと云々」(扇3・83)