日風上人のことども⑩

             住職 小野山  淳堂

 

御教歌

信心を根として起るこゝろなれば

    これは仏祖の御はからひ也


 六月も駆け足で過ぎて行きました。神戸佛立寺、須磨香風寺、金沢昌柳寺と、思い出深いご奉公をさせて頂くことができました。随伴参詣の皆様に、厚く随喜御礼申し上げます。

 今月廿七日は当山開導会。今回は松風会の交流参詣で私が奉修導師としてご奉公させて頂きますが、第一座は大垣妙法寺の古定日勇化主、第二座は建國寺の石川清優尊師に御法門を頂き、一座二座共に私が奉修導師として簡潔に御法門させて頂いていつもと違う形態で奉修させて頂きます。建國寺から四十名の参詣予定です。三拍子揃った御会式に致しましょう。

 先月、明治丗一年、日風上人が廃寺同前になっていた佛立寺の寺号を再興くださると共に奈良本妙寺を入手して自らは佛立寺住職に、奈良本妙寺は西村現教師(後の日礼上人)を住職に推挙されたと記しました。

 

 今月はその奈良本妙寺を入手することになった経緯を紹介致します。

 そもそも奈良本妙寺は、伏見宮・法親王日承上人を開基と頂くお寺で、永禄十三年(元亀元年)京都本能寺の貫主を引退された日承上人が元亀三年(1572)に創建されたお寺で、今に453年の歴史を持つお寺です。しかし、明治廿二年四月廿九日、大火により堂宇は焼失し、当時、法律上は寺院明細帳からも削除された廃寺同前の寺となっていました。

 明治廿七年、本能寺から住職に任命された木村日念上人は奈良県庁に出願して廃寺処分を免れ、明治廿八年、篤信の信徒向井政行氏が日念師を動かして、僅かに八畳敷の本堂と六畳敷の庫裏を再建して門前静光という人を住職とされたのでした。

 ところが、明治廿九年、住職となった門前静光師は、明治卅一年五月、県税八銭九厘を滞納して差し押さえを受けたためか行方不明に。その頃、日風上人は「戦争には城、弘通には道場」とのご信念で、ご弘通のでき始めた奈良の地にも本拠地が必要と、出張ご奉公の合間を見ては疲れた足を延ばして適当な場所を探されていたのでした。

 

 そんなある日、上人が何気なく通られたのが奈良下三条。フト、目に入ったのが本妙寺。寺とは名ばかりで境内は一面草の山。二間四面の本堂は建て腐りの人の住むべくもない廃墟。弘通の志ある処、必ず仏祖のお計らいありと疑わない日風上人は僅かなことも見逃されませんでした。その上人の耳に聞こえてきたのは通りすがりの赤ん坊を背負った子守の歌う「こわや恐ろし、本妙寺の狸、昼もでてきて人だます」という歌。上人はニッコリして早速この辺りで物知りと言われる老人に出値い、このお堂の由来を聞いて御法のお導きを確信し、日聞上人に報告。本能寺へ願い出でて「佛立講に拝借したからには必ず元の本妙寺にして見せる」との約束でこれを借り受けられたのでした。そして、中々容易に住職の許可を与えない本門法華宗を雑賀日秀師の尽力を得て動かし、兄弟同様の親交のあった西村現教・日礼上人と共に許可を得、本宗の皮肉に入ってこれを改革すると方針転換された日聞上人のお供をして妙蓮寺に登山されたのでした。強盛の信心こそ一切を動かす原動力と申せます。

御指南(扇27・296)

「サレバ中途半ノ青識者ハ所詮信者ニハ成難シ、末代ノ愚人ニシテ肝要ヲ好ムハ真ノ智者也信者也」