法難を超えて

        住職 小野山  淳堂

 

御教歌

住宿のかはるも何かをしからん

    うきは身にあるものとおもへば

 

 先月、開導会に併せて大津法難一五〇年の記念法要を無事奉修させて頂くことができました。 

 しかし、二日前に突如発生した台風12号は観測史上例を見ない進路で、今までの経験が役立たないとの予報。我々を大いに悩ませ、難儀させてくれました。

 もう数時間来るのが遅かったら結縁行列は勿論、他寺院からの参詣も、寺内の参詣やご奉公も出来ず法要そのものが大風で吹っ飛んだ可能性がありました。

 

 これは開導聖人のご法難の苦難とは比ぶべくもないとはいえ、我々も先の見えない不安や恐怖心に悩まされた事によって、開導聖人の感じられた不安や恐怖、往来大道で捕らえられて本縄を掛けられ、ニワトリを入れる駕籠のような唐丸駕籠で京都へ運ばれた開導聖人の屈辱感の万分の一でも味わえたのかも知れない。「法難記念日にふさわしい一日だったのかも」と思える法要になりました。

 開導聖人のご法難が御利益に転じたように、我々も無事奉修を終え、喜びと感謝の中に新たな決意を起し、ご弘通ご奉公に更なる一歩を踏み出しましょう。

 

 さて、開導聖人は、慶応四年七月廿九日、大津六十四ヶ寺の讒訴(ざんそ)を受けて逮捕され、初代京都府知事長谷信篤公から直接取り調べを受けられましたが、その人柄といい弘める法といい申し分のないものであると認められ、六日間の入牢の後、「京都府御免出家」の鑑札を授けられたのでした。しかし、当時の法的規制として寺住みの僧侶でなければ法義を説くことが許されておりませんでしたから、信篤公は同時にもともと開導聖人に縁の深かった本能寺で再出家せよとの裁定を下されたのでした。

 

 しかし、当時の仏教界は江戸幕府の御用宗教となってその本義を失っており、門祖さまの流儀を継ぐべき本能寺もその例外ではありませんでした。そのため開導聖人はお祖師さま、門祖さまの御本意を再興するべくこれを厳しくお折伏して来られており、本来、本能寺は開導聖人が身を置かれるべき場所ではなかったのですが、便宜上この裁定に随い本能寺で僧籍を得て入寺することにされたのでした。

 

 冒頭の御教歌は、開導聖人が大津法難の後、九月に本能寺に入られるまでの間にお詠み遊ばされたお歌で、御題には「大津にもえかへらで」とあります。元治元年、幕末の京都で起った戦火に追われて大津に住まいを移されてから四年。第二の故郷ともなっていた大津追分法華堂へ帰ることも出来ず、さりとて本能寺が快く受け入れてくれるわけはなく、ましてや自分の本意でもない。この御教歌はそんな身の置き所に苦慮されていた頃のご心境を詠まれたお歌であるといえます。開導聖人はそんな境遇の中、ご弘通のためならどこにでも住もう、自分の身を憂え苦慮する心は自分の中から出るもの、大津へ帰れないことを惜しむな、信心さえあればそこが寂光と思いを切り替えられたのであります。お互いも、今どんな境遇であっても、信心の中からキット安心と喜びは見付けられると教えて頂くのです。

 

御指南「迷ひの上の願ひはよしや叶ふとも叶はずとも、此大法にあひし上は何事か不足ならん。死して地獄におつべき身なりしをのがれたるは此上の御利益はなし」(扇六・四五頁)