「日風上人のことども⑳」
住職 小野山 淳堂
御教歌
苗代の小田のかはづの諸こゑも
只 一声ぞはじめ也ける
もう梅雨の季節に入ろうとしています。一年は二季だという方もあり、暑い夏もあっという間に来そうです。六月から弘通年度の下半期が始まりますが、お教化は二十五個のところ十一個でまだ半分弱。来月廿六日は開導会。御題目口唱の力を後押しに誓願達成に向け精進させて頂きましょう。「化の功己に帰す」で、功徳は必ずわが身に帰ってきます。
さて、大正十四年七月十五日、日風上人は七十歳にして七世講有日淳上人に講有位を依嘱伝承され、一生最後最大のご奉公に取り組まれることになりました。
それは四箇道場の一寺であり、開導聖人ご自建立のお寺でありながら、創建七十年の歳月を経て、壁は落ち、柱は朽ち、御宝前の天井にまで雨漏りがするほど老朽化した法華堂・佛立寺を改築して、開導聖人が自らデザインされた大燈籠にふさわしい本堂を建立することでした。
その昔、法華堂の建立から十七年目の明治十二年、佛立寺の寺号公称が認可された時。開導聖人は『御喜び状』を遣わされて、「追分の地に法華堂や今大路屋敷が建立されたことはまったく不思議に思えてならない。その上東海道でも名高い大燈籠が建立されたことを思うと、これはキット佛立寺が『行末大寺とならん前表(先ぶれ)』であり、これ等のために身命財を尽して寂光へ帰られた方々も本地からお護りくださるに違いない。今、その大寺の伽藍が建立される将来の『造営の御手伝いのしるし』に、私から「百円」、妻の栄(えい)から「五拾円」を奉納させて頂く」とお祝い状とともにご有志をお送りくださったのでした。
当時の百五十円を今のお金に換算するのに、警察官の初任給から考えると、明治十九年の壱円は令和五年の二万~四万円の価値があるとされており、開導聖人ご夫妻の一五〇円のご有志は、今の三百万円~六百万円ぐらいになります。
この佛立寺改築の願業は、日聞上人のご時代に日聞上人のご実弟・御牧伝之助氏が「期成会」を組織され、日隨上人の時代には四箇道場の一つとしていよいよ改築という所まで漕ぎつけられましたが実現せず、日風上人の時代には修理では追い付かないほど朽ち果てており、「お前は法華堂の留守居じゃ」とのご命を遺言とされていた日風上人も日々心を痛めておられたのでした。
この時、大正十四年。京都の柏森新五郎氏がこの佛立寺改築のために百日間の日参を始められると共に、自宅を売ってご有志され、日風上人の宿願を自分のものとして渾身の力を込められたのでした。そして、時の支部長(局長)・高田徳太郎氏も厚志を寄せられ支部役・組長等も続いて事業は具体化していきました。
この頃、佛立講では根本道場・宥清寺の建立に全力を注いでいるさ中でありましたが、佛立全講の賛同を得て援助は日増しに増加し、開導聖人、御牧伝之助氏、柏森新五郎氏が発起人となった大事業は成就したのでした。お互いも家の中、組の中、お寺の中の発起人となり一歩進んだ信行ご奉公の牽引役とならせて頂きましょう。
御指南「多キ信徒ノ中ニモコレハ御奉公ト目ニタツ人トナルハ少シ」
(扇十四・三八六)