信心の目的地 

      住職 小野山  淳堂

御教歌

しぬるにはあらでしばらく寂光へ

  かへるところはこゝの娑婆也

 昨年末、本紙で「来年の元旦参詣はご参詣が激減する可能性があります」と書いた通り、例年の三分の一の参詣で、残念な結果となりました。

 元旦参詣の御題目のお供えが少なかった事を思い、お寺に参ったら五分でも十分でも余計に本堂で御題目をと呼びかけたら、青年会が早速減った分を計算して、「二十四万遍口唱」をと口唱会を始め、先月は二万遍のお供えをしてくれました。

 今年の寒参詣は寒さが厳しく、値打ち物の寒参詣でしたが、皆さん気張ってご参詣・ご奉公で、随喜させて頂きました。今年もキット良い年になります。楽しみながら皆で信行ご奉公に励ませて頂きましょう。

 

 さて、人間に死は付き物、死なぬ人は一人もありません。どんなにお金持ちでも、どんなに地位や名誉があっても、死なぬ人は一人もない。

 しかし、お互いの命は死んだら終いかというと、そうではありません。冬のコートの袖が薄くなり、古くなって汚れてしまったらそのコートは買い替えねばなりません。

 お互いの肉体も古くなれば新しい肉体と取り替えねばならず、ご信心では、「魂の宿替えするを死ぬというなり」と教えて頂いています。お互いは死んでどこへ宿替えをし、どんな着物を着たいでしょうか?死んだら、良い処へ宿替えし、ご馳走を食べて、安楽に暮らせるようになりたい。寂光参拝が夢ですという人もあるでしょう。

 しかし、お互いは、常夏の国に住めば、やっぱり日本のように四季があり、春秋に富んだ日本の国が恋しい、ということになりはしないでしょうか。こんなに寒い冬や暑い夏があるのに、日本に住みたいという外国人も少なくありません。

 

 冒頭の御教歌では、且く寂光に帰って休憩しても、やっぱり娑婆が恋しい、この娑婆でみんなと泣いたり笑ったり、時には腹を立てたり怒られたりしてもやっぱり人間が好きだ。人間として産まれこの娑婆へ帰って来て、みんなでご奉公がさせて頂きたいという心意気が詠まれています。

 冒頭の御教歌の前には、

のりのためおし入らるゝ牢獄は

  しゝてのゝちの浄土也けり

にくまるゝ程にみのりにつかへよと

  親のをしへにかなふうれしさ

という、大津法難によせられた開導聖人の御教歌がしたためられ、この法難の時の歓びを忘れず、今、明け暮れに唱え死にできることを願って口唱信行に励んでいる。仏立講の面々は誰も彼も「勤めは我が身に返る功徳」を信じて精進せよ。佛立講が永続すれば「人を助ける道」は永遠に絶えることはないと、その気概を披歴されています。

 

 朝のご披露を聞いて、昼間に組内の方の所へ行き、自分の車でお寺に参詣させて寒参詣の目標が達成できたと喜ばれた方もあり、将引に行ってコロナで拒まれた方もありました。魂は死なない。ご奉公の苦楽は我が身に返り魂を清めてくれます。娑婆に産まれ、娑婆に生きる喜びを深く味あわせて頂きましょう。

御指南「本尊抄に云、所化以て同体、これ己心の三千具足三種世間也と遊したり」(扇全十二巻・二九八頁)