日風上人のことども⑯

             住職 小野山  淳堂

 

御教歌

菩薩とは在家出家にかゝはらず

     人を助くる人をいふ也

 

 寒参詣も無事終了しました。厳しい寒さの中、日々参詣とご奉公に励まれた皆様に随喜申しあげます。寒修行の功徳でお教化が成就しますよう、特に今月一日には一万遍口唱会、寒明け総講の四日には弘通決起大会と祈願口唱会を挙行・実施させて頂きました。令和十年八月の日風上人第百回御忌には、上人に一番喜んで頂けるお教化が百個成就させて頂けますよう、残り六二個必成に向け、共に祈願口唱に徹しさせて頂きましょう。

 

 さて、明治四四年五月八日、二世講有日聞上人は健康を害しながらも、本門法華宗改革のために千葉県鷲山寺の住職を辞し、宥清寺の親寺である京都の本山妙蓮寺貫主に晋位されました。日風上人も鷲山寺から大津佛立寺へ帰山されましたが、悲しいかな日聞上人は同年八月廿五日、法寿五九歳でご遷化。日風上人も悲しみに後を追われるかと危ぶまれましたが一命を取り留め、第三世講有野原日隨上人に随従して副講有としてご奉公されることになりました。

 

 日隨上人は明治四四年に三世講有位を継承され、翌大正元年一月には本門法華宗管長に就任。五山会議に開導聖人の大僧正位追贈を提案され、大正二年五月、決定をみたのでした。

 日隨上人のご遷化は大正九年十二月十二日、法寿六七歳であられましたから講有位ご在位は十年ほどで、日聞上人の廿四年に比べて短い間でしたが、その宗門経営やご教導は進歩的で、教団の組織化と教養機関の設置等宗門発展に尽力されました。

 特にこの時代には地方のご弘通が開け、京都の本部と支部の連携を計るため地方巡教を励行、その足跡は遠く朝鮮にまで及び、日風上人もそのご奉公に助力されたのでした。

 

 また、大正二年には大阪の清風寺に薫化会が創設され、佛立寺でも薫化会が発足し、逢坂山の峠を越えて浜大津方面へ下ってすぐ、一号線から降りてくる道との交差点をちょっと下った右側の多羅尾さんのお宅で日風上人が薫化会お講を勤められたのが長松薫化会の始まりです。

 また、大正六年、「開導聖人遺跡保存会」が結成され日隨上人は私財を投じて開導聖人のご生家を買い取り、誕生地道場としてお住まいになられました。佛立寺が四箇道場の一つとして元旦の受け入れをしているのもこれが発端であると申せます。

 

 日風上人は大正五年(六一歳)、大垣松寿組(妙法寺)を分組して岐阜に福寿組(現妙唱寺)を創設して親会場を建立、神戸や丹波方面へもご奉公され、特に神戸支部(現本法寺)の創設に当り、本門法華宗から佛立宗に入講されて孤立無援の河野日栄上人を庇護されました。

 日栄上人は「当佛立講のことは全くの小僧、随分当初、いひしれぬ思いをいたしましたものです。其の時に当たり、陰となり日向となって自分に何くれと勝手を教え、指導をして、師匠にも只ならぬ情けをかけて下された一恩師が即ち、上人でありました。一つの御名物のようにお頭の低かった上人は、それであって決して恩にも着せさせ給わず、自ら御譲り下され、同輩に対するようの御態度で最後まで御教導下さいました」と述懐されてあり、日風上人のお慈悲の深さが偲ばれます。

御指南「わが身をくだりて人を立て、徳は人にゆづりて苦労はわれにひきうくるようにするを本因妙と申し候」(扇三三・一一五)