心のすみかは何処か? 

               住職 小野山  淳堂

 

御教歌

おなじよにすむと見ゆれど信不信

    心のすみか常にことなり

 

 夏季参詣も今月七日まで。今年の夏季参詣もコロナが邪魔をして、低調ではありましたが、参詣やご供養調整当番の皆さんは、それぞれ活き活きと参詣・ご奉公でした。また、二十四日には、先月案内の通り歌舞伎のDVDを鑑賞することができ、中には涙が出てきましたという方もあって、お祖師さまへの大恩報謝の一環になったものと随喜しています。 

 また、最終日には江北布教区制作のマンガのDVDで子供達と共にお祖師さまの大恩を偲ばせて頂くことにしています。また、当日にはお祖師さまへのお手紙や似顔絵を書くことにもなっていますから、一人でも多くのご参加を期待しています。

 なお、今月十一日は、久しぶりに一宮松鶴寺の片山清顕師に信行講座の講師を担当して頂きます。こぞって聴講させて頂きましょう。

 

 さて、昔の古い歌に、乀手を打てば下女は答える魚は寄る 鳥は飛び立つ猿沢の池 という歌があります。

 ある日、奈良を訪ねた人が興福寺の近く、猿沢の池のほとりにある茶店の床机(しょうぎ)に腰掛けました。この人がパンパンと手をたたくと、店員の女性が「ハーイ」と返事して奥から出て来る。池の中の鯉は餌でも貰えるのかと水際へ寄ってくる。木々の鳥たちは鉄砲でも打たれたのかと一斉に大空へ飛び立って行ったという歌です。

 

 一つの同じ行いでも、受け手によって、全く感じ方が違います。

 お祖師さまは『法蓮抄』というお書物に、「たとへば餓鬼は恒河を火と見る、人は水と見、天人は甘露と見る。水は一なれども果報にしたがって見るところ格別也」と示されてあります。恒河とはガンジス川。ガンジス川の水を餓鬼は火、人は水、天人は甘い露と見る。同じ水でも果報によって全く違った捉え方をする。

 同じ御法門を聴聞しても、そこからご利益の糸口を見つけるご信者もあれば、罪障な思いが先に立つ方もある。御法門を聞く耳に、ザルのような籠耳(かごみみ)もあれば、曲がり耳、切り耳もあって、聞いたことを断片的にしか覚えていない聞き方、自分の都合の良い方へ捻じ曲げる聞き方、自分の心に気に食わなければ途中で耳を塞いでしまう聞き方の方もあります。

 十九世講有梶本猊下が、野呂秀次郎さんという本山のご信者さんのことを紹介されていました。この方は、「御導師、私には怖いものが無くなりました。聞かせて頂く御法門のままにさせて頂いていたら、御法門のままにどんどんご利益を頂くので、私に怖いものはもうありません」と仰ったという事でした。

 

 お教化でも、参詣でも、財のご奉公でも、お役のご奉公でも同じこと。勧められてご利益の糸口とするご信者もあれば、聞き損なって功徳を積み逃がす方、「依(え)法不依人(ほうふえにん)」(法に依って、人に依らざれ)なのに、御法さまの心を真っすぐ聞けず、他人の意見に惑わされる方もあります。心のあり様で住む世界は変わります。信者が信心の世界に住めないのでは残念至極、お互いに用心が肝要です。

 

御指南「信心と申すは、こころのことなり。寂光に参詣するも心なり。地獄に落つるも心なり」(扇5・291)