A:佛立寺の御宝前のお祖師様のお膝元には、宝剣が置かれています。
これは小野山勘兵衛さんの娘さんで「はま」さんという人が、京都の素封家で木綿問屋であった竹村藤兵衛さんのところに嫁いでいて、その竹村家の家の蔵から出てきたのが、この短刀です。
この竹村藤兵衛という方の家へは、開導聖人もお越しになり、日聞上人、日風上人も懇意にされ、藤兵衛氏もよく外護をされたお方でした。
伝えによると、ある日、開導聖人がこの竹村家の蔵へ入られたことがありました。その時、開導聖人が蔵の隅で何か光るものを見つけられた、近くで見るとそれは一本の短刀だったということで、開導聖人はこれを貰いうけられ、その鞘に「南無妙法蓮華経、無有魔事皆護仏法、諸余怨敵皆悉摧滅」「照生死長夜大灯明、切元品無明大利剣」とお認めになられました。
その宝剣が今日この佛立寺の御宝前、お祖師様のお膝元に置かれてあるということで、我々の護り刀となっているわけです。
A:笹川臨風さんの小説『開導日扇聖人』によると、ご法難の現場は、追分の宿場町の中の山城(京都府)と近江(滋賀県)の国境、山城の国の領分の街道筋にあった浅井安兵衛のソロバン屋の店の前がその現場であったとされています。
そして、この小説では、「朝の看経も終り、食事もすました上人は、(浅井安兵衛の使いの娘の声に)心安げに立ち上がって街道を十数歩国境の立石のところまで行かれたとあり、開導聖人は街道筋を通って現場に行かれた事になっています。
しかし、佛立寺に伝わる言い伝えでは、開導聖人は法華堂の裏、当時は竹やぶになっていて、法華堂の北側にそって流れている用水路の脇の、土を上げる為の通路、そこを通って現場に向かわれたと言います。その通路を通って、小さな短い坂をのぼって街道筋に出た所が浅井安兵衛の店・木安(きやす)の店の西側に当たります。そして、街道を挟んで南側、木安の店の筋向いが京都府になります。開導聖人の「始ノ法難」の図には、「うら道」と、その道が記されてあります。
開導聖人は、この現場を「コゝハ木安ノカタハラ、両ワカレノ立石ノ前」(清風一代記略図)、「浅井安兵衛の宅の前のカンのづしのたて石の前」(御法難記)と仰せられてあります。「づし」とは「辻」のことで、「カンのづし」とは「観音辻」を意味し、牛尾山の「牛尾観音への辻」のことをさすと思われます。
召し取りの役人は四十数名。前の日から聞き込みをして、あるいは野に臥し、宿に泊まり、明くる朝の「四ツ時」、午前十時過ぎ、朝食後の一服とおぼしき時間に召し取りに入ったのでした。
捕り手の大将は「悲田院の角蔵」という武士で、追分に近い東の牢、京都南禅寺悲田院の牢から差し向けられた役人であったようです。
開導聖人の図には、「イヤイヤ、京都府ヂャ京都府ヂャ」とあり、国境を意識して、京都府へおびき寄せるために、浅井安兵衛の店を選んだようです。
開導聖人は、この入牢の時の心境を歌にして、
にくまるゝ程に御法につかへよと
おやのをしへにかなふうれしさ
と詠まれています。
※図子(ずし)とは、路地が行き止まりになっているのに対して、行き止まりにならず、次の通りまで貫いているものを図子(辻子)といい、路地と区別しています。